5/28・6/4実現塾 「観念回路の形成過程② 感謝回路と同期回路」はこんな追求に!
<観念回路の形成過程は以下の通り>
①サル時代に形成された同一視を超える、同類との完全一体化回路を形成。
②同類との一体化回路を基盤にして、万物との一体化回路を形成。
③万物との一体化回路と本能・共認回路との間の矛盾(意識の混濁)にぶつかる。
④それらの矛盾を突破するために、精霊の措定と概念化(本質の抽出)を行う。
上記の形成過程をもとに追求していきましょう。
1.①についての疑問点追求ポイントを挙げ、追求する。
〇同一視や完全一体化はどういう感覚か(ジェスチャーをしながら掴む)
<同一視>
主体という意識は残っている、対象という意識も残っている
主体と対象は同一視はされているが、一体ではない。分断されている。
<完全一体化>
自他の境が無いという状態
〇同一視しようと思って対象に意識を向けているときはどういう感覚か?また、完全一体化はどういう感覚か?
<同一視>
細かい動きを見たり、同じところがないか観察しているイメージ
すごく注視して観察して探索して、同じところを見出す感覚
<完全一体化>
出会った瞬間に「ひゅんっ」と一つになるイメージ
探索している時点で「対象」と思っている、完全一体化は自他の区別がないので、探索するまでもなく、相手の中に自分がいる、意識の全部が相手だ!という感覚
〇その感覚の違いはどこから来るのか、その形成過程から抑え直す
<同一視>
基本同類はすべて縄張り闘争の敵。ずっと気を張ってその敵を注視している中で、「同じように不全を抱えている」「同じような状況で苦しんでいる」というのを見出したところから同一視回路の形成が始まる。
従って、同一視回路は、敵(マイナス)の中に同じ所を見出して、安心感・充足感(プラス)を得る。そのためにとことん対象を注視・観察・手探りする回路。
<完全一体化>
木の上にいられなくなった初期人類が、完全に同類欠損の状態に陥り無になったところから始まる。無になったからこそ、全面的に相手が入ってくるようになった。
従って、完全一体化とは、主体がない状態で相手を全面受容する回路。
〇「超える」とはどういうことか
・同一視は、安堵と同時に不安もある。完全一体化は、敵味方関係なく、全て私だ!という感覚→安心・不安(敵・味方)の軸を超えている
・同一視は、分かり合える相手じゃないと充足できない。完全一体化は、会った人誰とでも充足できる→充足度が超えている
⇒★個体の境界を超えている(溶解している)、個体の存在を超えているということ。言い換えると、同一視よりも充足度が上がった状態で、充足物質の分泌量が増えたということ。
2.②についての疑問点追求ポイントを挙げ、追求。
〇万物とは何か?
万物は文字通り、全てのもの。人間も万物の一つである。
可視光線の波長(見えるもの)だけでなく、見えないものも含めて全てのもの。
〇万物と一体化しようとしたのか?せざるを得なかったのか?できちゃったのか?
オランウータン時代は、母子間の密着充足やオスメス間の性充足により、皮膚感覚と行動の一体化ができている。非果実期(エネルギーが足りないとき)に、そのような一体化の充足を通じて、自然界の波動やエネルギーを多少受け取っていた。
だが、これも「一体化によって自然のエネルギーを受け取りたいから」していたのではない。
根本には波動を合わせるというのはあるが、完全一体化の回路(充足)がない中で明確な主体意識は出てこないと考えられる。
●改めて人類の万物との一体化は?
・基本的に主体が喪失している状態だから、自然になっていったのではないか
・「主体喪失→全面受容の回路に収束して磨いた結果、たまたまあらゆるものと一体化できた」ということではないか
●「一体化しようとした」のではなく、「結果として至った」という点は整合するが、だからといって「たまたまできた」というと進化の摂理に反するのではないか。
主体を喪失しているとはいえ、根本の適応欠乏、可能性探索回路は働いている。その根本の適応欠乏や可能性探索が、同類との一体化回路ができたことにより、そこに全面的に収束した。言い換えれば、本能上も共認上もすべての機能が無効になった状態で、新たにできた完全一体化回路=その先端の可能性に本能も共認も収束して探索しているということ。
ただ、まだ回路として形成されていないので明確に「こっちが可能性だ」という意識はない。
あくまでも、同類との一体化回路が十分に発達して全面的に収束→充足できたから、結果的に万物との一体化にも無意識的に収束できた。
また、同類との一体化が発達すると万物の波動がキャッチできるとも言えるし、完全受容回路・一体化回路が磨かれると、逆に同類だけに絞るのが難しくどんどん同類以外の波動も入ってきてしまうということも考えられる。
3.③についての疑問点追求ポイントを挙げ、追求。
〇どういう矛盾・混濁なのか
そもそも本能は外圧に対峙するものであり、外圧との一体化を阻害する回路である。従って一体化するときは、本能・共認回路を麻痺させなければならない。つまり、本能・共認回路と一体化回路は存在自体が矛盾しており、混濁というよりも分裂している。
しかし、生存課題という現実課題に直面した時には、やはり自然に適応しようとすると本能を開放して作動させないといけないし、同類との関係という点でも共認回路を作動させないといけない状況になる。
本能は対象を「エサか、敵か」などのプラス・マイナス回路で判断し、それに基づいて行動指令を下す。
共認回路は同類闘争の敵・味方や相手と共感でプラス・マイナスがある。しかし一体化回路はそんなプラス・マイナス判断なしに全ての対象と一体化する。そのままでは(洞窟の外では)生きていけない。この場合、混濁度合いが大きいのはやはり男ではないか。
〇相反する回路を使い分けることはできないのか
時と場合を判断して使い分けることができていたら混濁しない。同時に出てくるから混濁する。
一体化回路だけを使おうとしても、本能・共認機能が作動していないとなると何も行動できない。逆に樹上機能を欠損した本能や同類欠乏の共認機能だけを作動させても自然には太刀打ちできない。(だからこそ、自然に対して突破口を探るという意味で一体化回路に可能性収束した)
→使い分けたところで、どちらにしても生きていけない。
加えて、2.での議論のように一体化回路は、本能・共認回路を超えた地平にできている回路であり、そこに本能・共認回路が無意識に可能性収束している。従って、一体化回路を一切使わずに本能・共認回路を作動することはできない。
4. ④についての疑問点追求ポイントを挙げ、追求。
〇どのようにして3のような意識の混濁を統合したか(ジェスチャーをしながら掴む)
・全体よりもさらに上位に何かを置いて、それをもう一度下まで貫通させてつなぎ直す。
・全てを包み込んで統合する。
本能・共認回路と一体化回路の矛盾を統合しようとすれば、まずは両方の回路を全体的に捉えそれらの関係を整理し、両方が満足するようなことを上位に付け加えていかないと解決しない。
〇どういう意識・ものを措定すると解消するか
まず、本能・共認回路には具体的な対象があるが、一体化回路が捉えた万物の波動は実態もなく、何と一体になったかは、はっきりしていない=五感で捉えられない。
また、本能・共認回路上では捉えた対象にプラス・マイナスの判断をするが、一体化回路にプラス・マイナス判断はない。
⇒万物を本能・共認上捉えられる具体的な対象として置き換えていく必要がある。またはそれを、プラス・マイナスを包摂or超越した対象と措定する。(ex.プラスやマイナス関係なく、「力というものがあるんだ」という感覚)
⇒プラス・マイナスを超えた奥にある存在で一体化したエネルギーの一部として繋がっている対象として精霊を措定
個々のプラス・マイナスを超えるというよりも、まずは一体化した万物のエネルギーの本質として貫く摂理がある。(ex.うずまきの渦と渦が終結している部分などに本質を捉えていた。)
それを捉えたからプラス・マイナスの現象も「その摂理の中で起きている、生きている」と捉えられるようになる。だからプラス・マイナスを超えられる。それがあって初めて具体的な精霊が捉えられる。
言葉(観念)の獲得過程も同様で、まずは全体→具象的なことへと細分化していく。みんなが生きた言葉を使っている中で過ごしているから文脈が分かり、言葉の意味が掴めるようになる。目の前の細かい言葉から教えて、徐々に抽象度を上げていくのでは使い物にならない。産み出す仕事も全体(ex.社会構造やプロジェクトの位置づけ)がないと個々の課題は見えてこない。
全体の中の本質・摂理を掴んではじめて、個々の事象が何を意味するのかが掴める。
⇒個々の事象と矛盾なく包摂できる本質を見つけるために試行錯誤する必要がある。
事象だけを見てもそれが、プラスかマイナスかはわからない⇒一体化回路を通じて本能・共認回路が収束できる本質を見出した。
摂理を見出し、それに照らし合わせていくことで、個々の現象の具体的なプラス・マイナス判断ができ本能・共認も収束することができた。
観念回路の形成・本質という意味では、一体化した背後に摂理や本質を見出したところが観念回路の原点。
ただ、万物として、そのようなものを見出しただけでは矛盾は解決していない。そのエネルギーを具体事象と繋ぎ直した=事象の奥に具体対象として精霊を措定した段階で初めて、意識が統合できた時点こそ、観念機能という統合機能の成立だといえる。
観念の目的は再統合。一体化回路という新しい回路と、本能・共認回路という古い回路を結び直すというところ。「それを何度も繰り返す過程が観念回路の形成である」と言えるでしょう。