6/11・6/18実現塾 「観念回路の形成過程③ なぜ言葉ができたか?」はこんな追求に!

今回は観念回路の形成過程に迫るべく、観念の形成過程と「ち」「み」と発音する言葉を集めた資料を基に追求していきました!

【1】 観念回路の形成過程について、万物との一体化が可能になって以降、③④というプロセスを経て観念機能が形成されたという仮説が提示されていますが、③④について、残る疑問点や追求ポイントを挙げ追求してみましょう。(また、他の仮説や必要な別のステップがあれば提示してください)

〇本能・共認機能と一体化回路の矛盾とは何か?

・本能は外圧と対峙して、外圧を跳ね返す機能。それに対して、一体化回路は外圧と一体になる機能本能は一体化を妨げてしまう。

・また、本能は五感で捉えた個々の具体的な対象がないと機能しない。しかし、一体化回路が捉えたものは、本能(五感)では捉えられない物=エネルギーだった。

・共認機能は同類を対象とした機能。つまり、自然(万物)に対しては反応できない。従って同類以外への対象の対応は、本能に判断を委ねていた

・更に、機能欠損の本能同類欠損の共認機能にとっては世界は不全でいっぱいだが、一体化回路は充足の塊として見ている。

本能・共認機能と一体化回路は存在自体が相反するもの

→それらを一つの意識として統合できないと体を動かすことができない


〇では、どのように意識を統合していったのか?精霊って何?

☆そもそも一体化回路は、本能や共認機能(旧機能)ではどうにもならない状況で形成された最先端機能(新機能)。従って旧機能発で新機能を統合するのではなく最先端機能である一体化回路の地平で本能・共認機能を再統合する(つなぎなおす)必要がある。

そこで、一体化回路で捉えている一体世界の中に本能が捉えられる具体的な存在かつ、共認機能の対話(期待応合)の相手として対象(=精霊)を措定することで、一体化回路で捉えた世界を本能・共認へと貫通させた(一体世界で本能・共認機能を包摂した)

→精霊をどのように措定した=本能・共認機能とつなぎなおしたのか?は、言霊=精霊を表した言葉の在り様から迫っていく。

【2】言霊といわれるように言葉は精霊を表したものです。
(1)「ち」という言葉(言霊)から浮かび上がる本質に迫ってみましょう。

☆「地」や「血」「乳」等、共通項として出てくるのは「命の源、エネルギー」。「稚」も稚魚や稚児などの「稚」。幼い=エネルギーに溢れているという事。

「知」は現代では知識の「知」というイメージだが、元々は主体的に掴み取るという意味だったのではないか。外部世界を掴む事が人のエネルギーの源、生きるのに不可欠だと捉えていた。

☆漢字が表す現象だけを見れば、全くバラバラのものだが、同じ一つの音で表される=同じだと包摂できる地平を捉えていた

 

(2)「み」という言葉(言霊)から浮かび上がる本質に迫ってみましょう。

☆「実」など、エネルギーの塊が凝縮したというか、表出したものを表しているのではないか。そして、その結晶化した対象を掴みに行く事(「見」「看」「味」「身」)も同じ「み」という音で表されている。また「み」は身でもあり、実でもある。歯=葉、鼻=花、芽=目。

植物も自分も主体側(感覚)も対象(実・身)も一体のものとして捉えている。

〇「ち」と「み」を踏まえて、本質を掴むとは?

☆今回言葉から本質に同化したが、本来言葉を生み出す過程はその逆。本質を掴んで、それを言葉に表現したという事。

☆その本質とは、エネルギーにある。言葉は万物の波動と一体化して掴んだ、エネルギーの核を表現したもの。

☆つまり、かなり異なるものの奥に共通する・貫通するもの(宇宙全体の波動、エネルギー)捉えて大きく括り「ち」「み」と表現したということ。

☆「ち」「み」の様に、これだけ異なるものを1つのものとして捉えられるのは、万物を一体として捉えた一体化回路の特徴本能は似たものを括って名付けること(二元化、類型化)しかできない

要素分離、主客分離の現代人とは全く違う捉え方、思考法

⇒一体回路は全然違うものを一括で括れる。観念は様々な具対事象を一括で括る包含思考である。

従って、全ての言葉は目に見えるもの、具体的なものを指しているものではない

☆その一体化回路の世界の括り方を変えてゆく⇒具体的にしていく中で本能・共認とつないでいった。

3.2を踏まえて「なぜ言葉ができたか」について仮説を提示してください。

〇動物の鳴き声と人の言葉は音声という点では同じだが、本質的に何が違うのか?
☆動物の鳴き声は現在の状況に対する発信。言葉は一体世界から抽出した本質を表現し、みんなと共有するためにできた。この本質を追求⇒表現しようという点が鳴き声とは違う所。


〇みんなと共有するための手段は身振り手振りなど様々あるが、なぜ音声に収束したのか?

☆人類は本質=精霊を音声だけで表そうとはしていないありとあらゆる発信機能を最大限使って表現しようとした。例えば、人の神経は指先と表情筋が特に発達している。身振り手振りや表情も含めて、こんなにも気持ちを豊かに表現させている動物は人類以外にいない

本質を何とか表現したい掴みたいという思いで、聴覚や発声機能、神経を発達させてきた。機能は後追い、欠乏が先にあった。人類は万物を波動で感じた。それを伝えるのに、一番良かったのが音声だった。しかし、掴んだ本質を最初から「ち」と表現できたわけではなかったみんなで掴んだ波動の本質を表現しようと探索する中で、発声機能も進化していった。

☆音声言語だけでみると身振り手振りより情報量が少ないという欠陥があるように見える。しかし、抽出した本質=精霊を表すには収斂した、そぎ落としたものでないと伝わらない

☆また精霊の措定⇒本質の抽出は360°ありとあらゆる視点から追求する必要がある。言い換えれば、五感を超えた存在=精霊は常に未知、常に追求の対象である。従って本質追求を一人ですることはできないし、みんなの追求の中で、組み換え、探索する必要がある。そこで、いろんな複合したものを凝縮して、微妙な音感としてのせられる音声に収束した。(同じ波動である可視光線が単調であるのに対し、音声は合成波として、一音に込められる要素が多い。

☆音声はそぎ落とした本質を一音に凝縮して伝えることができるので、組み換え柔軟性と追求スピードを上昇させることができた。その結果、観念の組み換え、組み立て、構造化がすすめられた

一体化回路も充足回路だが、追求回路も充足回路なのではないか?本質を掴んで意識が統合される感覚自体が充足単なる一体化充足とは違う意識が統合(すっきり)できる感覚それにつながる追求自体が充足になる。

☆それは、どういう言葉にして伝えれば相手に響くか?伝えやすいか?言葉との格闘そのもの本質追求をしていく中で、追求充足が互いにできるかどうかに言葉の本質がある。追求する気がないなら、言葉じゃなくて、動物の鳴き声と一緒