9/10、9/17「始原人類の世界観に学ぶ」はこんな追求に!


【①】~【③】の設問全てを貫く摂理は、「全ては動いている、そしてエネルギーを持っている。それゆえつながりあって循環しあって、バランスし、調和している」ということ。これを踏まえて【①】~【③】の設問を見ていきたいと思います。

【①縄文人の世界観「月と蛇と縄文人」を読んで、掴んだ本質、疑問点・追求ポイントを出す。】


縄文の世界観の中心は「再生」「甦り」
これらは「死んだものが生き返る」ということではなさそう。実際、新月になったからといって月は死んでいないし、ヘビは脱皮・冬眠も動かないからといって死んでいない甦りとは循環・流転のイメージ。様々な同期や大きさのサイクルの中で形を変えながら循環している。

■死という概念はあったのだろうか?
・現代の「死=無になる、なくなる」という感覚ではない。甦りの一部に死があるだけで、死を特別視しておらず、寝ているのと大差ない感覚なのではないか。
死体が動かない状態であることは認識しているが、それは別のものに形を変えているor次の甦りに向けてエネルギーを蓄えているだけで、同じ世界に生きていることは変わらないと捉えていたと思われる。

お墓が集落の中心にあるが、死が怖いものならばそうはならない。「甦り」に生命エネルギーを感じていた縄文人にとって、墓は生命エネルギーがたまる場所であり、分散した集団をつなぐ統合のシンボルでもあった。

■高床式の建物を作る技術があったにも関わらず、あえてじめじめした竪穴式住居に住んでいたのはなぜ?
・進化史のほとんどを洞窟で過ごしていた人類は、洞窟状態の環境を快適と感じるようになっていたと考えられる。
・また薄暗い場所にいると、自分と相手の境目がだんだん曖昧になり、一体化しやすくなってゆく。同類や万物との一体化のためには、薄暗い竪穴式住居内が最適だったのではないか?
・竪穴式住居の室内は子宮に例えられていた。寝て起きて住居を出る度、毎日新しく生まれなおすという捉え方をしていたのではないか?
また水に生命エネルギーを感じていたから、水分の多い場を好んでいたのではないか?

★観念内容=世界観が変われば、快・不快の捉え方も変わる(水分が豊富な状態をじめじめと捉えるか、水々しいと捉えるかで印象が全然違う)。
現代の私たちにとって不快と思われる場でも、そこに生命エネルギーと一体充足を感じる縄文人にとっては快適だった。

■石斧や縄文土器が派手なのはなぜ?
本当に石斧は斧として使われていたのだろうか?
斧ならもっと刃先を薄くしたり、硬い素材を使うはず。しかも、石斧はきれいに磨かれた状態で見つかっている。ということは刃こぼれをしてもキレイに戻しているか、斧として使われることがなったのではないか?
同様に、縄文土器も何かを入れる器としては不便すぎる形にも関わらず、人口以上に出土されている。ということは、これらは生活のための道具ではなく、祭祀などに用いられたのではないか。
つまり使いやすさなど実用性の中身も、現代とは全く異なる発想や世界観から生み出されている。

■水にぬらすと鮮やかな緑色になる石斧に象徴される嬰児から赤子になったのは何で?
平安時代頃から赤子という言葉が使われるようになった。赤は神社などが象徴的であるが、魔除けや厄除けの意味を持つ。
平安時代は祟りや呪い等が隆盛し、霊に対するマイナス視が生じている。
一体化やつながりとは真逆の世界観へと転換した結果、子どもがエネルギーの象徴から、厄除けの意味を込められたものになったと思われる。

・太陽ではなく月なのはなぜか?
太陽がえらくないと言っているわけではない生態リズムや生殖=再生の意味において月が象徴だっただけ
加えて、象徴は地域によって違う。その土地で一番生態系・生命に影響を及ぼすものが象徴になっている。万物を大切にしていることは変わらない。

★始原人類の世界観の本質は、「再生やよみがえりに生命エネルギーを感じていた。また全ては、様相を変えて循環している。」ということ。

【②「言葉から見る始原人類の世界観」を読んで、掴んだ本質・疑問点・追求ポイントを出す。】


・「おかげ様で」(大和言葉)
目の前の対象ではなく見えない所(つながり)にこそ本質がある。「おかげ様で」も「有難う」も目の前の対象だけに感謝しているのではなく、目には見えない無数のつながりや支え合いの中で生きていることを掴んでいた。(対象が”あなた”だけのThank youとは異なる)

■そのような世界観を表す言葉が挨拶に使われているのは日本語の特徴。それは何で?
世界観を共有すること自体皆の充足であり、活力源であったのではないか。
また日常の中に世界観(全ては一体である、つながっている、循環している)を感じることが充足、活力源になっていたのではないか。

・「バランスは常に継続の必須条件」(イロコイ族)
全ては常に動いていて、それゆえエネルギーを持ち、それゆえ生きている。そして全てはつながっていて、形を変えながら循環してバランスを取ることで、調和する。

事実、地面も日々少しずつ動いているし、H2O分子も動いている。そしてそれらは動いているからこそバランスを取っている。
始原人類はこれらの事実を肉体的に感じており、万物を貫く自然の摂理として全面的に受け止めていた。

・「友でないものはいなかった」(ナヴァホ族)
道中はいいことばかりではなく、猛獣に出会ったり、雨や風に打たれたり危険もあったはず。しかし危険な状況や対象も含めて全てを友であると肯定視している。全てが繋がっていると捉えていた始原人類にとって、全てのものは「友=自分に関係しているもの、一緒に生きているもの」であったのではないか。

・「私とともに歩け。私たちは一つなのだから。」(ソーク族)
同類との関係を序列ではなく、お互いにエネルギーを与え合う関係と捉えており、集団の中に明確なリーダーはいなかったと考えられる。

【③抽出した本質をもとに、始原人類の自然観・世界観とは?】
■「全ては生きていて常に動いている、全てはつながりながら様相を変えながら循環して調和している。」という始原人類の世界観を踏まえて、改めて一体化とは?
今までの一体化のイメージは、スキンシップや密着充足のような「静的」なものだった。
★しかし、始原人類が感じていた世界観からすると、むしろ「動いているからこそ、万物と一体化できる」ということ。すなわち一体化は「動的」なものである。
「間違うかもしれない」「どうなるかわからない」からと(良かれとさえ思って)、何もせず止まってしまうことはよくあるが、「何もしない」=「固定的である」ことはつながりや循環を止めて、一体化を阻害し、調和を乱すということ。すると、動き続ける周りの活力を下げ(疲弊させ)、一体化を妨げてしまう。
また「止まっている、何もしない」ためには、「全てが動いており、関係しあって循環している」という万物の摂理に、一生懸命抗わなければならない。従って「何もしていない」割に疲れてしまう。
逆に(あっているように見えても間違っているように見えても)循環しようと動きさえすれば、どこかで調和し、みんなと一体になれる。

■始原人類から現代人が学ぶべきポイントは?
★目に見えないところに本質がある
現在、「おかげ様」や「有難う」、「いただきます」等の言葉は見えている対象にしか使えていない。「相手発」という言葉も目の前の相手に留まり、対象が狭すぎる。従って仕事でも目先の課題や方法論に飛びつきがちだが、それでは根本解決に至らず何度も手戻りが起きる。
しかし始原人類の世界観で生まれた大和言葉も本来、万物に向けられているし、「相手」も万物とつながり、影響しあって循環する中でつくられている。もっと広範囲のつながりを掴もうとすることで本質はおのずと見えてくる。

★始原人類の世界観は現代人と全然違っているが、前者の方が何事もうまくいきそうな感覚がある
現実が「全て動いていて、影響しあいながらつながって循環して調和している」のに、「自分は関係ない」等の観念操作でブツ切りにして一体化を妨げている現代人が特殊。現実に反してそう思い込もうとしても、上手くいくわけがない。
逆に始原人類にように相手や状況は常に変化し、関係しあっているという視座があるだけで仕事の進め方も変わるし、つながり→循環→調和を見出せる程、成果も大きくなる。(ex.成績が上がって終わりではなく、それを次にどうつなげられるか)
類塾の一貫教育の“一貫”という意味も、全て(生徒の意識や環境等)は常に動く(毎日刻々と変化する)中で、遊び、学び、探求など様々な要素を一緒になってつなげて、循環させていくということ。だから何かは見ないという判断はない。全てのつながりの中で一緒に生きていくということである。