11/5、11/12~「観念進化の歴史」~はこんな追求に!
下記の資料は人類が生み出した遺跡や道具を年代順に並べたものです。前回はこの資料を使い、10万~4万年前までの進化の歴史を追求しました。
今回は前回の追求を元に3万年前からの進化の歴史について、追求を深めていきます。

1.洞窟線刻画や象牙の人形はどこが凄いと思いますか?(際立った特徴がどこにあると思いますか?)また、これらを制作するにはどのような能力(思考)が必要だと思いますか?
<凄いところ>
見たものをそのまま表現するのではなく顏だけを描いたり、線だけで描いている/勢いがある/エネルギーに満ちあふれている/躍動感がある/作り手の想いを感じる/遠近感を表現している/硬いものをどうやって彫ったのか/すごく手間がかかっている
■抽象模様や染料と比べて何が違うか?
抽象模様…掴んだエネルギーの本質を形にしている。
染料…抽象模様よりもさらに具体的且つ精密に捉えているし、その再現力が上がっている。
洞窟線刻画・象牙の人形…対象の特質(ある一側面)を掴んで、増幅・強調して表現している。またそのために、強調したい部分以外を省略したりもしている。(→芸術的表現になっている)
→抽象模様や染料は捉えたエネルギーや本質をそのまま表現した外部認識。
それに対して、洞窟線刻画は外部認識に「感動・感情・期待」などの内部認識が上乗せされている。つまり、自分たちの欠乏に応じて、外部認識を捉えなおしたものを表現し、共有できるようになったということ。(その後、この系統の創作物がどんどん増えていく。ex.土偶etc)
線刻画はその名の通り、壁面を彫刻して、そこに染料を塗り付けたもの。しかも壁面だけでなく、高さおよそ5メートルの天井にまで施されている。もちろん、鉄器などはない。
壁から天井までこのような壁画が施され、それらが揺らめく火の灯で照らされる洞窟内は、より躍動感が強調され、エネルギーに包まれているような幻想的な空間となることが想像できる。
つまり、現在の教会のステンドグラスのように、感動を共有し、エネルギーを増幅させる祭事の空間演出(装飾)として、洞窟線刻画や象牙の人形を作成したのではないか。
また、エネルギーや感動を共有するために始原人類は、これを自ら進んで行っていたと思われる。(エネルギーを増幅させるものを作るということ自体に充足を感じていた。)
そのような自発的芸術活動(空間演出)にそれだけの時間とエネルギーをさけるということは、食糧や時間に余裕があったということ。
考えてみれば、始原人類は、7万年前には日常的な火の使用や弓矢の使用もできるようになっている。(線刻画を描くためにランプも使用している)
また、天井に線刻画を彫るための足場を組めるということは、洞窟の外で家を建てる技術もあったと考えられる。それでも、洞窟に留まり壁画や人形の制作に没頭した。そうして飾られた洞窟は、大きいもので8000平米もあり、さながら地下要塞のようでもある。「エネルギーを増幅させる」ことが空間づくりの最規定にあり、洞窟の外よりも洞窟内に居続けた方がよかったから洞窟内に居続けたと考えられる。
→食うにも困って貧しく、洞窟の中に隠れ住むしかないという始原人類のイメージを塗り替えなければならないのではないか。
2.3.5万年前のヒヒの骨には月日を刻んだと思われる跡がありますが、当時の人類はなぜ日数を把握したいと考えたと思いますか?
ex.月の動きを把握するため/掴んだ月の動きを共有するため/季節の移り変わりを把握するため/持ち運びやすくするため
■どのように刻み目をつけていったのか?
1本1本の刻み目は「日が昇って、沈んだ」あるいは「月が昇って、沈んだ」という一日(一晩)ごとにつけられたと思われる。
それが月の満ち欠けの “一巡り”分=29本印されているところから見て、“太陽”と“月”あるいは、月の“満ち欠け”と“動き”という異なる周期がそろうところを掴もう(印そう)としたと思われる。
異なる周期が重なるのがいつかを掴むには、肉体感覚だけでは限界があるので、骨に刻んで記録する必要があった。そして、「細かいリズムの幾つ分か」と「大きい一巡り」が同じである(そろう)ということを掴んだのではないか。
※ここで骨に刻み込まれた跡は「くる、くる、くる…くるりん(一巡り)」と細かいリズムごとにキズをつけたというだけで、「1,2,3,4…」という数を表していたのではない。
また、資料右下にある環状列石も、実は一つの村に2つあり、それぞれの中心線(日時計)を結ぶと、夏至の日の出の位置とそろうように作られている。
それらは、「月の周期」と「太陽の周期」の異なる周期を捉えるためにつくられたものと考えられる。
更に始原人類は、循環と再生の世界観で生きているので、万物のサイクル=周期を掴んで同期しようとしていた。
特に、太陽と月が同期すると(ex月食、日食)、互いのエネルギーが増幅し、潮の満ち引きが大きくなるほど、大きな影響をもたらす。
極限的な外圧の中、生き抜くエネルギーを渇望してきた人類は、万物の生命活動に最も大きな影響を与える太陽と月に、強い関心を持ったのではないか。
3.その後、縄文尺(成人のひじから手首までの35㎝くらいの長さ)が登場し柱の間隔などを図ったと考えられますが、設問2の「月日」と併せて、数の原点を推定してみましょう。
ex.限られた食料を仲間と均等に分けるため/バランスのとれた、大きい建物を建てるため/みんなで協力して建物を作るため
・食べ物を分けると言っても老若男女に対し均等に分けることはない。一人ひとりに必要な量を分け与えていた。(ex.お腹の空いている人には多め、病人には少なめ)
また、均等に分けるにしても数を数えるのではなく、「等分(=同じ)」の感覚で分けることができる。
・建物を建てるだけなら、だいたいのバランス感覚でも建てられる。
むしろ、地面の硬さや傾き・材質の違いを考慮すれば、柱の間隔を図ってそろえることが必ずしも安定するとは言えない。
それでも尺で間隔を図るのは、縄文人に「そろえたい」という精神的な欠乏があったためではないか。実際に、三内丸山遺跡の高床式倉庫の対角線は、夏至の日の出の位置と重なるように配置されている。
始原人類は万物との同期→共振→一体化を最大の収束軸としている。そこから、タイミングがあったら気持ちいい→太陽と月、さらには建物なども「そろえたい、そろったら気持ちいい」という感覚が生じるようになった。
まず、万物と一体化⇒同期するために、万物のリズム=同期を捉えようとした。
そこで、一周期を基準とする感覚“単位”という感覚に繋がった。(“一周期”を基準として、異なるリズムが「周期の幾つ分でそろう」のかを掴んでいった。)
そして「単位の幾つ分」という “比”の感覚が数の感覚になっていった。
★数の原点は、「ものの数を数える」のではなく、「基準=単位」を決めることであり、その「幾つ分」という比の感覚である。
学校の計算問題などは、単位のない数字の羅列でできているが、現実世界には単位のない数など存在しない。単位のない数字を扱い続けることが、数的感覚の育成を妨げ、算数・数学嫌いに繋がっているのではないか。
また、単位(基準)は、縄文尺やフィート(足のサイズ)などのように、肉体的実感と繋がって初めて、使うことができる。
基準は対象の大きさやスケール感に合わせて、いかようにも決められる。故に肉体的実感とズレると、その数値がどういう状況を意味しているのかが掴めないし、ミスも起こる。
肉体的実感で捉えられる単位を設定することで、あらゆる大きさを把握することができる。(ex.「8000平米」よりも「東京ドーム幾つ分」と言われる方が大体の大きさが想像しやすい)
■同時期に洞窟線刻画や人形と数が生じたのはなぜか?それらの関係は?
単位も強調表現も、欠乏に応じて対象の「ある一側面だけに焦点を当てている」という点で共通している。またそれが精神的欲求(そろえたい・同期欠乏)から来ている点でも同じ。
それが全体の調和を切り離されると、この思考が暴走して、自分都合で無尽蔵にエネルギーを取り出して、秩序を壊す(ex.目先の利益のために原発を造るetc)ようなことに繋がる。