12/3、12/10~「世界観と暮らしの変様」はこんな追求に!
前回まで、およそ3回にわたって観念進化の歴史を追求してきました。
今回は、前回残った追求ポイントである「洞窟の外に出たのはいつからか?」というテーマを扱うにあたって、まずはそこまでの人類の生活様式がどのように変化してきたのか?それに伴う意識・世界観の変化を明らかにしていこう!というところから、
【世界観と暮らしの変様】というテーマが扱われました。
実際に実現塾では、以下の3つの設問を切り口に、資料にある状況証拠から人類にかかっていた外圧と技術力、暮らしぶりを推定し、当時の人々の意識、ひいては世界観が始原人類たちと比べてどのように変化していったのか?を論理整合性のもとに紐解いていく追求になりました。

【1.いつ何を契機にして、人口は増大したでしょうか?どの程度増大しましたか?】
実際の実現塾では、
弓矢ができて防衛力が上がったから/温暖化したから/現在農業している国は人口が増えているので、栽培をして人口が増加したのでは/調理で煮炊きできるようになり、毒を分解したりできるようになったから/ギョベクリ・テペは人口が多くないと建てれなさそうなので、この頃からすでにかなりの人数がいた?
などの発言が、ありました。
■様々な視点や要因があると考えられるが、そもそも人口増加に必要な要素とは何か?
★人口増加に必要なのは、生存確率の上昇と乳児死亡率の低下、出生率の上昇の3つ。
この3つのどれかがかけていても人口は増加しない。例えば、日本は生存確率も高いし、乳児死亡率も低いが、出生率が低いため人口が減少していっている。
これら3つの要素がどのように上昇してきたか?を年代順で整理していくと
・7~6万年前 弓矢の発明、火の使用
弓矢の発明・火の使用により防衛力が上昇し、野外での活動時間が長くなった。初めは外に出られるのは男たちだけだったと思われるが、弓矢の技術が発達するにつれて、徐々に女子供も外で採取活動を行えるようになっていった。
それにより、日光を浴びる時間が増え、ビタミンDを生成できるように。ビタミンDは小腸でのカルシウムやリンの吸収率を上昇させる。その結果、骨や細胞、免疫が強くなり、体が丈夫になった。(洞窟時代の港川人等の人類は骨がスカスカだった。)これによって出産に耐えうる母体の丈夫さや母乳の出やすさにもつながり、出生率の上昇や乳児死亡率の低下につながったと思われる。
・2万年前 土器の発明
これによって調理と貯蔵が可能になった。すべての植物は毒を持っているが煮炊きによって、あく抜き(毒抜き)ができ、食べられるものが増えた。また、栄養の吸収率もよくなって、大人の生存確率や出生率の上昇・乳児死亡率の低下にも寄与していると考えられる。
・1.4万年前 気候変動(寒冷→温暖へ)
これによって植生が豊かになり、食べられるものも増える。凍死もしなくなった。
・1万年前 栽培の開始
栽培の開始時期と人口が多かったと推測される時期は重なっている。栽培を始めて、食料が安定したのではないかという説があったが本当か?
「どうして栽培が始まったのか?」次の【2】の設問では、それも含めて『栽培・飼育の起源』に迫っていきます!
【2.栽培や飼育が始まったのは何で?】
■一般的には、食料危機から栽培が始まったとされるが本当か?
★資料のグラフと地図を見ると栽培が始まったのは温暖期で、それまでよりも植生が豊かになっていく時期。また始まった地域に注目してみると、チグリス川・ユーフラテス川周辺、中国も黄河や長江の間など、全て豊かで肥沃な大地(サハラ砂漠もこの時はまだ草原)。
→そもそも食料危機には陥っていないと思われる。
★また栽培している品目も、オリーブ、サトウキビ、コーヒーなどの嗜好品ばかりで飢えをしのぐには向いていない。(米も戦前までは嗜好品の1つだった。)
そもそも植物は、他の植物と一緒に共生して補い合いながら育っているため、同種ばかりを植えると、弱くなってうまく育たない。そのため栽培は、種まきから収穫まで毎日の作業が必要。労力がかかる上に、病気や天災などがくると一発で全滅してしまうし、虫や獣に狙われる事もある。しかも、オリーブなどは収穫まで3年と非常に時間もかかる。
→採取や狩猟に比べ、手間のわりに安定しないし、3年後の収穫では現在の食料危機への対応が間に合わない。
以上のことから食料危機で始まったわけでないと思われる。
■ではなぜ、始まったのか?
・遺跡の分析によると、この頃の人類が食べていた物の割合は9割が野生種、栽培種は1割。採集していた野生種の中でおいしいものを選んで栽培していたと思われる。しかし、美味しかっただけで、ここまで労力や手間のかかることをするのか??
・この頃になると【1】で扱ったように人口がかなり増えており、他集団との接触も増えきたと思われる。また地図を見てもわかるように、栽培が広まる伝達スピードは速い(1000年で世界中に広がっている)。
以上のことから、他集団を歓待したり、その技術を贈与するために栽培が始まったのではないか?
最初は野生の物を採ってふるまっていた。しかし、それではおいしいものが採れないこともある。相手をもてなすために、常に用意してあげたい→その場だけではなく持って帰って喜んでほしい→持って帰った先でも育ててほしい(育て方・採り方を教えたい)とどんどんエスカレートしていった。
■なぜ、食料で歓待したの?
食料だけでなく、接遇の初めから終わりまで全部精一杯おもてなししていた。贈与品も黒曜石etc.など多岐にわたる。
現代にも通ずるが、中でもお客様が一番喜んでくれるのは、一生懸命作った、心がこもった贈り物。他集団が喜んでくれる姿を活力源にして、栽培をしていたのではないか?
■人口増加と栽培の関係は?
人口が多かったと推測される時期と栽培が始まった時期は重なってはいるが、当時の生業は栽培ではなく、狩猟や採集。栽培は人口増加の原因ではなく、人口が増え、他集団との接触が増えた結果、贈与・歓待のために始まった。
【1】【2】で追求した環境の変化や技術の進化を踏まえて、いよいよ【3】では『人類の意識・世界観の変化』に迫っていきます!!
【3.弓矢の発明~調理や貯蔵~栽培・飼育の開始に至る過程で、人類の自然観や世界観はどのように変化したと考えられますか?】
この設問に対して、実際の実現塾では、
野焼きあたりから自分たちで支配するようになったのは何で?でも精霊という概念は残っていそう…/貯蔵は循環と矛盾しないの?飼育は支配のは始まり?/今までは自然のあるがままだったけど、人類が流れを作る側になったの?/循環の仕組みを都合よく使っているのではないか?/栽培は作っているというよりも育てている感覚なのかもしれない。あくまで自然の摂理の中での栽培だったのではないか?
などの発言がありました。
※焼畑農業と混同されがちですが、ここで扱われている『野焼き』とは「敢えて森林を焼き払うことで、丈の短い草が生える環境にし、自分たちが獲物とする小動物が増えやすい環境を作ること。一方で、山火事が広がるのを防ぎ、生態系を守るためにも行われている。」ものを指しています。
■自然に対する世界観は?
・人類は圧倒的な自然外圧に対して、調和したい、一体化したいという欠乏で追求→観念進化してきた。それに対して、野焼きは万物の一体化を破壊しているのではないか?栽培も生態系を破壊しているのではないか?事実として、人類が進出した後の地域では、大型草食哺乳類の大量絶滅が相次いでいる。
・しかし、野焼きや栽培も欠乏に応じて循環の一部を促進させているという点では、強調表現と同じ。その源流は弓矢などの道具づくりにある。見方によってはバランスを欠き、自然を破壊しているようにみえるが、主観的には自然を支配したり、コントロールしようという気持ちはないと思われる。どこからが世界観が変化したと言えるのか?
★観念が進化したことで、人類は自然に対する適応力(対抗する力)を身に付けられた。(自然をつくりかえたりバランスを壊す力はある。)従って、自然に対する超越視は弱まっていった。
しかし、人類の世界観が万物との一体化と比べてどう変容しているか?は、その中身が「どこまでの範囲で一体化しようとしているか?」に規定される。(ex.インディアンもバランスを欠いたことを度々総括して教訓として語り継いでいる。)調和の範囲を常に広げていく事がより適応的な方針を見つけていく上で大事。
■同類に対する世界観は?
・そもそもはじめは自集団の仲間からの期待圧力が同類圧力の全てだった。その自集団は生まれたときから一体化で統合されている。そこに他集団という新しい同類圧力が登場した。
・他集団は未知対象であり、自集団の変異可能性でもあり、また親和蓄積がなく価値観なども違うため、緊張圧力の源でもある。
★その圧力に対して当時の人類は歓待、贈与で一体化しようとした。もっと一体化していくために技術も進化させていった。つまり、他集団との交流(すなわち自集団を超えた同類圧力)が活力源となっていった。
■自然に対する世界観と同類に対する世界観はどういう関係か?
★自然にはある程度対抗できるようになったので、相対的に自然圧力が弱まった。代わって、同類(他集団)圧力が第一の外圧となった。
★そもそも同類圧力は、サル時代にも最大の活力源であり、進化の原動力。同様に同類圧力を受けた人類は他集団との一体化のための観念内容と技術を進化させていくようになった。
以上が今回の実現塾の内容になります。
次回は1/14です!皆様のご参加をお待ちしております♪