1/14、1/21 「集団規模と統合様式の変化」はこんな追求に!

前回は「世界観と暮らしの変様」をテーマに、人口増大の理由や栽培飼育が始まった理由、自然や同類に対する世界観がどのように変わっていったのかに迫る追求となりました!

火や弓矢が使用可能になったことにより、洞窟外にいる(=日に当たる)時間が長くなったこと。さらに、煮炊きが可能になったことや、気温の上昇によって栄養状態が良くなり、人口が増加したのではないかということ。その結果、他部族との接触が始まり、贈与やおもてなしで友好を保つようになったこと。そのおもてなしの一部として栽培(例:オリーブ、コーヒー豆)は、始まったということが明らかになりました。

今回は上記の追求を前提に、さらに人口が増加していく中で、集団はどのような形態になっていったのか?また、統合様式はどのように変化していったのか?資料等を題材に、以下の設問を通して地域の違いを超えた共通構造を読み取っていく追求となりました。

現代の「組織編制」や「組織統合」を考える上でも役に立つ気づきや認識が盛りだくさんで、すっきり度の高い回となりました!

【1人口が増大すると、複数の集落が集結し、大規模集落となるという共通項がみられます。なぜ集結するのか、その理由を考えてみましょう。
実際の実現塾では、

人数が多いほうが、充足度があがるからでは?/栽培が始まって集結しているので、生産力を上げるため?/技術や知識を高度化するため?(灌漑や石壁を作るため?)/自然災害や外敵から身を守るため?(噴火にポイントがありそう。)/中国と日本は途中で人口が減って分散している=基本は分散していたいのでは?/川(水)がある場所等、より住みやすい地域に集まっていき集結したのではないか?

などの発言が、ありました。

■そもそも集結する前は何故分散していたのか?

当時の生産様式(=狩猟採取)で、1人分の食糧確保に必要な面積は2.5~4平方キロメートル。それが、10~20人の集団になると約50平方キロメートルにもなる。それ以上集団規模が大きくなると、更に広範囲な縄張りが必要となるので常に遠征をしているような状態になってしまう。(=縄張り限界)
また、人類は“万物が繋がり循環している”という世界観の中で生きているが、その循環との調和を保つためには、集団規模を一定以下に保つ必要があったとも考えられる。(=調和の限界)
さらに経験的にも、共認(対面のやりとり)で統合可能な人数は20名程度。(=統合限界)
以上のことから、人類は一定の人数を超えると集団を分割し、分散して生活していた。
※人数が多いほうが楽しいなどの充足欠乏が上記の要因より優先されるのであれば、初めから分散せずに、20→30→50と集団を大きくしていくはずである。

■では、集結することになった要因はなにか?

さらに人口が増大すると、
・豊かな場所が少ない地域では、限られた地域に人が集中せざるを得ない。
・豊かな地域でも自然災害(火山の噴火など)で住める地域が急減すると、被災地から沢山の人がまだ住める土地に集まってくる。
そうして人口密度が高くなると、サル時代の無限苦行のように集団が“密集”し、“生存に必要なの縄張りが重なる”ようになった。生物は生存圏が重合しないように住み分けており、人類史上でも初の事態である。
◎生存圏を確保できない状況は適応本能⇒縄張り闘争本能を刺激し、集団間の緊張圧力と“力の欠乏”を高めていく。一方で、同類との一体化を最大の活力源にしてきた人類は依然として他集団とも一体化したいという欠乏を持っている。そのため戦争や奪い合いのような争いを極力避けようとした。

■結果として「集結」したのは何故か?

◎縄張り闘争圧力への適応の仕方は様々あるが、(例えば、サルなら集団化したり、体を大きくしたり、小型化したり、足を速くしたり)人類の場合は「数」の力に収束して、集団同士が「集結」していった。集まることで、相手へのけん制となり、縄張り防衛上の連合や同盟も可能となった。
逆に、集結しなければ生存圏を確保できない状況だったともいえる。
その時集結したのは、分散して定住していた同族、生産様式や文化が似ている等「近しい集団」だったと考えられる。(現代でも、同じ出身地だと仲良くなったり似た性格の人たちが集まったりすることにも通ずるものがある。)

さらに集結は、技術や観念内容の高度化ももたらした(技術力の上昇は“目的”ではなく“結果”)。それは、灌漑や石壁などの土木技術や、貯蔵・保存による生産力の向上のみならず、集団間の緊張を和らげ、友好関係を保つための贈与やおもてなしの追求も加速させたと思われる。縄文中期に見られる土器が、突出して豊かな表現となっているのもそのため。
そうやって人類は、“縄張り本能”と“一体欠乏”のせめぎ合いを解消していった。

集団が集結するとどのようなことがおきるのか?をもっと深めるべく、【2】の設問では、『統合様式の変化』に迫っていきます!

【2】集団が、30名規模から150名ないし300名規模に大規模化すると、どのような変化や統合のための工夫が必要となるでしょうか。

実際の実現塾では、
共通して祭祀場が見られるのは何故?/各集団のリーダーが必要になったのではないか?/共通の課題が必要になるのではないか?/踊り(ケチャ)等行っていそう。/精霊のように貫徹された観念統合が必要になるのではないか?

などの発言がありました。

■そもそも20人規模の集団の統合はどのようなものだったのか。

集団構成は大人10人子供10人とすると、男女5人ずつ。
全員が目の届く範囲にいるため、互いに何をしているか分かりやすく共認(対面のやり取り)で統合が可能だったと考えられる。
リーダーや階層を作らずとも、外圧に応じて全員が生存のために判断し行動していたことも想像できる。

■150~300人規模の集団の統合にはどのようなことが必要か?

・300人を対面のやり取りだけでまとめるのは不可能。従って単位集団からの“代表者”が選出され“代表者会議”を行うなどの多段階編成が必要になった。
・また近しい集団同士とは言え、単位集団の独立性は高く生まれも育ちも“違う”。(従って、人類の数が減ればすぐに分散していく。)
そのため、親和を深めるための“祭り”(ex:食事や踊りなど)が必要になったのではないか。(現代でもクラス替えの時の初対面や、元々別の集団・グループにいた人との交流は、緊張するし気を遣う。)
・さらに、集団全体で取り組む共通課題(=実践方針)を共有することで集団の統合度を高めていったとも考えられる。
◎親和や共通課題の前提には“世界観の共有”が不可欠である。
世界観が違えば、現実をどうとらえるか(=状況共認)が違ってくるので判断も規範もそろわない。(人材育成においても、能力問題に目が行きがちだが、そもそも捉えている世界観が違うと擦りあうことはない。)
★つまり世界観の共有⇒理論追求が集団の結集軸となっていた。

◎以上のように、大規模集落を統合するためには非日常的な、大掛かりで多面的な場が必要となる。そして、それを担っていたのが“祭祀場”だったのではないか。
つまり、祭祀とは「世界観の共有(祀り)」や「親和形成(祭り)」、「共通課題の追求と共認(政り)」を実践する集団統合の要だった。

そういう意味では「実現塾」も、世界観を共有(=事実の追求)をするための一つの場である。

※集団の高度化や友好関係を作るために、人材の配置転換(=他集団への移籍)もあったと考えられるが、それは当時の婚姻様式と密接に関わるので次回扱う。

以上が今回の実現塾の内容になります。

次回は「集団規模と統合様式の変化②」です!
皆様のご参加をお待ちしております♪