代表メッセージ

人々は何を求め、どこに向かっているのか 代表取締役社長 岡田順三郎

役に立ちたい

今、誰もが、誰かの役に立ちたいと思っている。しかし、自分の使命や志を胸に抱いている人はマレで、殆どの人は、具体的な自分の役割を見つけることが出来ないでいる。
 それは、人々が何を期待しているのか?あるいは、人々はどこに向かっているのか?を明確に掴んでいないからである。誰かの役に立ちたいのなら、「自分がやりたいこと」などという妄想は脇に置いて、まず人々の期待の中身を掴まなければならない。
 では、人々は何を求め、どこに向かおうとしているのか?現代は歴史的な大転換期と言われているが、何が、どう転換するのか?それは目先の変化を追っていても掴めない。とことんマクロに歴史を振り返って、次代を掴む必要がある。

人類の母胎は原始共同体

人類は、その500万年の歴史の内、99.9%を原始共同体の中で生き抜いてきた。想像を絶するような過酷な生存条件の中、人類は洞窟に隠れ住み、恒常的な飢えに晒されながら、皆で力を合わせて食料を採り、それを集団が共有して皆に分配しながら、かろうじて生き延びてきた。
 彼らは過酷な自然を前に、踊りや性の充足を生きる意欲の源とし、その充足をエネルギー源として、皆で日々「どうする?」と追求し続け、遂に目に見える自然の背後に、自分たちの期待に応えてくれる対象=精霊を見出した。この精霊こそ、本能を超えた人類固有の観念機能の原点であり、皆で「どうする?」を追求し続ける追求充足こそ、人類を人類に進化させてきた人類の命綱であった。(現在、人類に切実に求められている次代の活力源こそ、この追求充足であり、同じく切実に求められている追求力の母胎を成すのも、この皆で「どうする?」を追求する追求充足に他ならない。)

掠奪闘争から私権収束へ

そして約2万年前、弓矢の発明によって他の動物と互角以上に闘えるようになった人類は、ようやく洞窟を出ると共に急速に人口を増やしていった。人口が増えるにつれて、各集団間に同類闘争の緊張圧力が働き始める。そして約5千年前、乾燥によって再び飢えに晒された遊牧集団によって、遂に掠奪闘争が引き起こされ、世界中に伝播していった。
 こうして、力の原理に貫かれた世界が出現した。そこでは共同原理は破壊され、支配者が全ての物財を私有する。そして、力の強制圧力によって私有権が共認されると、人々は私権(財や地位)を獲得しなければ生きてゆけなくなる。かくして、誰もが私権に収束して奪い合う私権収束の社会が成立した。(それ以降、現在まで私権社会は続いている。誰もが私権の獲得に収束し、そこに収束することによって統合された私権統合の社会であるという基本構造は現代も何も変わっていない。)

’70年、豊かさの実現と私権の衰弱

しかし、約50年前、人類は科学技術の進化によって遂に貧困から脱出した。その先頭を切ったのは、日本である。
 豊かさが実現されると、貧困の圧力を大前提として成立していた私権の強制圧力は急速に衰弱してゆく。人々はもはや私権を獲得するために、これ以上あくせくと働こうとしなくなり、企業も上意下達では社員を統合することが出来なくなってきた。そして今、お上やマスコミの暴走が示すように、この社会は、至る所で秩序崩壊を起こしつつあるが、それは、もはや従来の私権追求では集団や社会を統合できなくなったからである。

私権から本源へ

人々は今、私権に代わる新たな収束先=活力源を求めている。しかし、それは、いったい何なのか?
 私権の強制圧力が衰弱すると、それによって封印され抑圧されてきた人類本来の本能充足や共認充足が再生されてゆく。すでに ’70年、ヒッピーは仲間収束や自然収束の方向を先駆的に提示していたが、 ’80年代には仲間収束が普遍化して仲間圧力が第一義的な圧力となり、 ’00年代になると仲間収束を一歩進めた課題収束が顕在化してきた。そして、今や仲間で「どうする?」を追求する追求充足が最先端の活力源となりつつある。
 この追求充足こそ、人類を人類に進化させてきた人類の命綱であり、今、人類は本来の活力源と追求力を再生してゆきつつある。従って、 ’70年以降の仲間収束や自然収束の潮流は本源回帰の潮流だったと言えるだろう。

活力がない、元気がない

ところが、’10年辺りから元気のない(追求力もない)学生が年々増えてきている。類グループは40年に亘って新卒の学生を見続けてきたが、仲間収束や課題収束が強まっているのに、活力が衰弱してきている。何か充足していないし、何も追求していない。
 それは、なぜか?それは、根本的には市場社会を導いてきた近代思想に代わる(本源回帰を導く)新理論を誰も創出できないからだが、直接的には小・中・高・大16年間に及ぶ学校教育が、生徒や学生の意欲と追求力を奪い続けてきたからである。

学校の勉強は、役に立たない

大人は、学校で学んだ知識など、社会に出れば殆ど役に立たないことを知っている。実際、漢字や加減乗除以外の知識は、殆ど使われることがない。
 それは、学校で教える教科の中身が全く現実離れした中身だからであるが、とりわけ近年、全教科を貫く近代思想や近代科学が現実社会との乖離を深めてゆくにつれて、教科内容の無意味さが隠しようもなくなってきた。今や、大半の子どもたちが、学校の勉強が何の役にも立たないことを見抜いている。
 いったい、なぜ学校はこんな無駄な教育をやり続けているのだろうか?小学校は未だしも、中・高・大の10年間は、かけがえのない貴重な歳月なのに。
 それは、もともと学校制度というものが、従順に命令に従うロボットのような人間を育成するために、軍隊をモデルにして作られた制度だからである。
 学校は、ナポレオンの時代、国民皆兵に不可欠なものとして制度化された。従って、明治政府が学校制度を導入する際も、軍隊がモデルとなっている。実際、朝礼もラジオ体操も原型は軍隊だし、制服も原型は軍服だし、ランドセルは兵隊の背嚢である。
 そんな類似より、もっと根本的な問題は、「上官の命令は絶対」であるのと全く同様に、「先生の命令は絶対」となっていることである。事実、学校は軍隊と同じく絶対的な強制圧力によって成り立っている。

使い物にならない人材を大量生産する学校

そこでは、「先生が絶対である」教室の中で、生徒に勉強を強制し、その囲いの中で試験、試験と生徒をムチ打ち、従順な子羊へと生徒を飼い慣らしてゆく。
 この試験圧力の下では、子どもたちは「点を取るための勉強」しかしなくなり、本来なら生起する筈の「これ何?」「何で?」という追求心が封鎖されてゆく。実際、定期テストを2~3回もやれば、殆どの生徒の頭は「試験脳」に固まってしまう。
 しかも、学校で出される問題は、正解のある問題ばかり。だから、生徒たちはその答えを「理解」しようとする。しかし、「何?」「何で?」の追求を捨象した「理解」など、単なる答えの暗記にすぎない。
 だが、社会に出れば正解のない問題ばかり。答えを暗記することしか出来ない「試験脳」では、全く使い物にならない。現に、受験エリートは大半が試験脳しか持ち合わせておらず、追求力を保持している学生は上位生ほど少なくなっている。だから、学歴信仰も崩壊し、今や、学歴で学生を選ぶ企業など殆ど存在しない。

赤ん坊は、言葉の欠乏の塊

誰しも赤ん坊の頃は言葉の欠乏の塊で、「これは何?」「何で?」と聞きまくり、貪欲に言葉を吸収してきた。しかも、それは誰かに「言葉を覚えなさい」と言われた訳ではなく、100%内発的な欠乏に基づいて吸収したものである。
 ところが、学校に入ると、一気に追求心を失ってゆく。それは、学校が上から与える教科の中身が、子どもの内発的な欠乏と全く繋がっていないからである。だから、子どもがそんな強制的な「勉強なんかやりたくない」と言うのは当然と認めるべきだろう。
 それを認めようとせずに、先生や親が勉強を強制すればするほど、子どもは元気がなくなってゆき、生きる意欲さえ失ってゆく。現に、「仕方なく生きているだけ」と口にする子どもたちが既に大量に存在している。
 この3~4年、子どもたちの勉強嫌いは年々強くなってきている。しかし、そうなればなるほど、学校の先生はますます圧力に頼り、強制を強めてきた。その結果、子供の勉強嫌いと先生の強制圧力の悪循環で、今や学校は子どもを閉じ込める監獄と化しつつある。
 学校の強制圧力はクラブ活動にまで及んでおり、授業と宿題と学校行事を合わせると、学校による生徒の拘束時間は、優に週60時間を超えている。大人でさえ週40時間労働という縛りがあるのに、子どもを相手にする学校には何の縛りもない。これは、異常なのではないか?今や、学校は、日本最大のブラック産業だと言っても過言ではない。

   

教育に名を借りて、
子どもを潰してゆく罪は極めて重い

教育に名を借りて好き放題に強制権力を行使し、子どもの生きる意欲を奪い続けている学校の罪は、極めて重い。ところが、殆どの親はそうと知らずに、「子どもは勉強が全て」「成績が全て」と思い込まされている。
 だが、騙されてはならない。あたかも「勉強が全て」「成績が全て」であるかのような空気を作ってきたのは、それをメシの種としている学校と塾屋である。もちろん、「勉強第一、成績第一」というのは彼らの幻覚にすぎず、今や勉強が何の役にも立たず、成績上位者の大半が使い物にならないことは周知の事実となっている。
 要するに、世間の親たちは、学校と塾が作り出した空気に支配され、そう思い込まされているだけである。4年前まで、類塾も強制圧力に基づく教育に加担してきた。しかし、その罪の重大さに気づいて、類塾は探求型の教育に転換した。類塾が転換できたのは、類グループが只の塾屋ではなく、建築設計を基点に地所や農園や週刊「事実報道」の発行など、多様な事業を展開し、社会の現実を知っているからである。
 だからこそ、反省を込めて発信する。決して、彼らが喧言する言葉に惑わされてはならないと。
 元来、教育は生産者を作り出すためにある。従って、教育は常に生産と一体であった。例えば農家は一つの生産体であり、従って、学校などなくても、働いている親の背中を見ているだけで、健全な子どもたちが育っていた。ところが、現在のサラリーマン家庭には生産過程がない。従って、教育を学校に外注するしかない構造下にある。しかし、どうせ外注するなら、子どもの生きる意欲と追求心の再生を促してくれる、もっとまともな教育機関に委ねるべきだろう。

最先端の潮流

大転換の時代とは、常識を超えてゆく時代である。学校についても然りで、学校不要論が浮上してくるのも時間の問題だろう。
 時代は、私権収束から本源収束へと大転換中であるが、人々の意識の変化スピードは、年々上昇してきている。
 これまで、滅びゆく私権収束の潮流の中で勉強に収束してきた学生よりも、仲間や部活に収束してきた学生の方が本源収束の潮流を体現しており、より大きな可能性を持っていることは確かだが、’80年代以来の仲間収束も、’90年代以降の部活収束も、すでに最先端の潮流ではない。
  ’12年末の不正選挙を起点に、’13年(本能の深い所で)秩序崩壊の危機感が生起し、それが社会に対する不整合感を顕在化させた。そして、秩序崩壊の危機感と社会に対する不整合感は、脱制度・反強制の意識を生起させ、その脱出口として小・中学生を仲間発の男女収束に向かわせると共に、自分の頭で物を追求する追求収束へと向かわせた。

充足力と追求力の時代

'16年には、小・中学生の「男女のつき合い」経験者は8割に達している。'90年代のセックスレスの蔓延以来、ドン底にまで低下してきた『性』が、遂に再生し始めた。(ちなみに、性の衰弱のドン底世代が、現在の20代である。)この小・中学生に現れた「性の再生」は、大いに注目すべき現象である。
 これをもって、人類の命綱である性充足と追求充足の両輪が出揃ったことになる。本源社会は、もうすぐ手の届く所まできた。
 すでに、現在、充足力の高い人の周りに人が集まり、又、追求力の高い人の周りに人が集まるようになっているが、今後、人類は真っすぐに、充足力と追求力の獲得へと収束してゆくことになる。
 おそらく、女たちの男たちに対する闘争期待が男たちの闘争力(追求力)欠乏を増大させ、闘える力を身に着けた男が性充足期待を高めるのに応じて、女たちが充足力を磨いてゆくことになるだろう。

みんなで「どうする?」を追求する集団=共同体

人類の命綱は、男女の充足を母胎として、みんなで「どうする?」を追求する追求充足にあり、これからの時代の最大の活力源も追求充足にある。しかし、殆どの企業は相変わらず私権の強制圧力を主軸にして社員を統合しており、その結果、社員の内発的な意欲と追求力は削がれ続けている。それでは、これからのサバイバル闘争の時代に生き残ることは出来ないだろう。これからの企業は、強制圧力ではなく、みんなで「どうする?」を追求し、経営してゆく共同体でなければならない。
 類グループは、50年前から、時代が私権社会から共認社会に移行してゆくことを見抜いていた。そして、創立以来、「自分たちの生きる場を自分たちで作る」をモットーに、共同体企業としてこの私権社会に挑戦しながら発展し続けてきた。同時に、50年に亘って本源社会と共同体集団を導く新理論(事実の認識体系)を追求し、世界に先駆けて構築してきた。
 そして、今、遂に追求充足の時代=共同体の時代が来た。
 類グループには、共同体としての豊かな蓄積がある。毎日200もの投稿で賑う社内板や、毎週社員が一堂に集まる劇場会議、更には外部の社会人や主婦や学生も参加する実現塾など、多様な追求充足の場が用意されている。
 類グループは、「勉強しか出来ない」試験脳の学生は要らない。現代は、充足力の高い人(主に女)の下に人が集まり、追求力の高い人(主に男)の下に人が集まる時代である。類が学生に求めるのは、充足力と追求力のみ。そのような内発的な充足欠乏や追求欠乏の高い生徒なら中卒でも、中退でも喜んで採用する。
 充足力あるいは追求力を磨きたい、そんな人たちの応募を待っている。


代表取締役社長 岡田 淳三郎