代表メッセージ

事実を知れば、志が芽生え、追求が始まる 代表取締役社長 岡田順三郎

世界は、アメリカ支配からロシア主導へ大転換

世界情勢が急転し始めたようである。2年ほど前にロシアの軍事技術がアメリカの軍事力を上回ったことを知った各国は、中国・インド・イラン・ブラジルはもとより、親米の筈のドイツ・フランス・サウジまでロシア追従へと方向転換した。中東でも、イラク・トルコがロシアの軍門に下るのは時間の問題だろう。
 それどころか、オバマ自身が好戦派(侵略派)の急先鋒であったイスラエルを切り捨てると共に、非戦派のダンクフォード大将を軍のトップに配置して好戦派の将軍やCIA幹部の追放に着手し始めた。また、中国主導のアジア開発銀行には、アメリカの盟友イギリスまで加えて57ヵ国が参加を表明し、ドル基軸体制に代わる新通貨体制の準備が整いつつある。
 ’15年のロシアによる電撃的なIS爆撃は、ロシアの軍事技術の優位を知ったオバマが了承せざるを得なかった軍事行動であったが、中国もその軍事技術を命綱としている。従って、どうやら習近平もオバマもプーチンに歩調を合わせるしかなくなり、プーチン主導で各国が金貸し支配を打倒する反金貸しの闘いに入ったものと思われる。それは、夫々の自国を守るためであるが、期せずして世界を守る闘いとなる。
 近世以来、金貸し(金融勢力)が市場を支配してきたことは周知の事実だが、金貸しは市場だけではなく配下のアメリカの軍事力にモノを言わせて世界政治をも支配してきた。そのアメリカの軍事力をロシアの軍事技術が上回ったとなれば、もはや金貸しに打てる手はなく、いずれ政治はもちろん市場からも駆逐されてゆくことになるだろう。従って、金貸しに追随してきた金融業や製造業等の大企業の大半は、今後見る陰もなく衰退してゆき、その半数は姿を消すことになる。

問題のロシアの軍事技術だが、その最先端技術はミサイルや戦闘機や戦艦の電子装置を不能化する単極子ビーム(注:単極子とは、N極or S極だけの単極磁石)で、追いつくには10年以上かかると米軍自身が認めている革命的な技術である。しかし、それまでに勝負はついて終う。おそらく、アメリカはロシアの軍門に下ることになるだろう。
 しかし、いったい、西側の科学技術は何故これほど遅れてしまったのか。最近、アポロの月面着陸が完全な捏造であったことが、「月面着陸」を撮影したスタンレー・キューブリック監督自身(の死後公開の声明文)によって明らかになったが、アメリカの宇宙開発は一貫してロシアに遅れを取ってきた。
 西側の科学技術がここまで遅れてしまったのは、金貸しが石油と原子力によるエネルギー支配を維持するために、すでに前世紀初頭にニコラ・テスラによって開発されたフリーエネルギーや多くの研究者による常温核融合の研究を握り潰し、封印してきたからである。それだけではない。金貸しは石油枯渇説をはじめタバコ発ガン説、CO2温暖化説etc.学者とマスコミを動員して世界中に大嘘を広めてきた。このような嘘がまかり通るような世界で科学が進化する訳がない。
 それに対してロシアは、あくまでも現象事実に立脚して事実の追求を重ね、迷走する西側の物理世界を遠く引き離して、既に単極子を核とする宇宙の統一理論を樹立している(例えば、スミルノフ学派で日本人の佐野千遥)。

近代観念による事実の封印と思考の停止

金貸しが封印してきたのは、自然科学上の事実だけではない。むしろ、金貸しは、近代以降、一貫して人々の意識を近代観念一色に染め上げ、社会科学上の事実を封印すること、その為に学会とマスコミを支配し、学校教育とマスコミを動員して人々を染脳することに力を注いできた。それは、それこそが金貸しが世界を支配するための命綱だからである。(自然科学上の事実の封印も、その延長上にある。)
 自由・平等・博愛、あるいは個人主義・民主主義、あるいは権利(人権)という観念、これらは全て、現実にはどこにも存在しない、頭の中だけの架空観念に過ぎない。現実には存在しないということは、事実に反する観念だと言い換えることもできる。近代思想は、ユダヤ・キリスト教の観念パラダイムを踏襲しているが、神であれ、個人であれ、権利であれ、それらは全て、現実否定→自己正当化という思考回路が生み出したものである。つまり、貧困や抑圧に満ちた現実世界を否定し、(現実世界の変革に向かうのではなく)頭の中に「神」や「自由」や「権利」etcの観念を創出して、その観念に寄り縋るという思考態度である。
 セム人や白人がそのような思考方向に向かったのは、4200年前~3200年前、コーカサス周辺での皆殺しの略奪闘争の連鎖によって、共同体が完全に破壊され、再生の現実的な立脚点を失ってしまったからである。従って、彼らには、現実世界の変革に対する不可能視が刻印されており、現実とは逆の非現実の世界に救いを求めることになる。近代観念も、その延長上に生み出されたので、極めて深刻な欠陥を孕んでいる。

まず第一に、果てしない皆殺しの略奪闘争によって共同体を失ってしまった彼らは、他者否定と自己正当化の塊である自我に立脚して、唯一絶対神を作り出したが、近代観念たる自由・平等・博愛も、個人主義・民主主義も、権利という観念も同じく自我に立脚して作られた観念なので、唯一絶対性を帯びて頭の中に巣食っている。従って、それらの観念に染まれば染まるほど、自分の利害発でしか物を考えられない「自分脳」が形成されてゆく。
 第二に、不可能視を刻印されているが故に、現実を対象化するのではなく現実をただ否定し、かつ自我でそれを正当化しているので、現実を直視して可能性を追求する人類本来の思考が失われ、最も大切な思考回路が、何事も否定し、原因を分析してお終いという「否定脳」に改造されてゆく。
 第三に、現実に存在しない(事実に反する)架空観念に立脚しているので、当然のことながらフランス革命であれ共産革命であれ、その観念(理念)が実現された例(ためし)は一度もない。それどころか、近代思想を信じてそれらの運動に飛び込んだ有意な若者たちは、出口のない袋小路に追い詰められ、悉く挫折していった。彼らの頭の中には、今も変革に対する不可能視が深く刻印されている。
 第四に、近代観念は、与えられたその架空観念(しかも唯一絶対観念でもある)を信じ込んだら終いで、その後は人々を思考停止に陥らせる。例えば、近代観念に操られて何らかの運動をしている当人たちは(幾つかの知識が頭の中に在ることを以って)物を考えているつもりでいるが、その実はどこかで聞きかじった知識の断片をお題目のように唱えているだけで、完全に思考を停止してしまっている。しかも、当人たちは、それに気付けない。

実は、民主主義や権利などを掲げる革命運動や市民運動こそ、(本人たちは、金貸しに騙され操られているとも知らずに、自分は正しいことをしていると信じ込んでいるが)あらゆる変革の芽を摘み取り、社会を閉塞させてきた張本人なのである。そもそも、個人主義・民主主義をはじめ、近代思想を生み出したのは金貸しなのであり、敵と同じ近代思想に立脚して現実世界を変革し、本源社会を実現することなどできる訳がない。

学校教育が生み出す「暗記脳」と言語能力の低下

現代人の精神を蝕んでいるのは、近代思想が作り出した「自分脳」と「否定脳」だけではない。学校制度が作り出した「暗記脳」も、現代人の思考力をドン底にまで劣化させてきた。そして、学校制度と近代観念が相俟って、人々を完全なる思考停止の檻に閉じ込めている。これは精神破壊とも言うべき所業である。

事実、明治以降、日本人の言語能力は低下する一方であるが、その最大の原因は、学校や塾の「教える教育」にある。
 他方、例えば職人の世界では、師匠が弟子に教えるということはほとんど行われない。徹底して何も教えず、「どうすればできるか」を弟子自らの頭を使って考えさせる。そのような教育が、追求力を培い、世界でも群を抜くレベルの技(技術力)を生み出してきた。
 しかし、学校教育が始まると、教育は答えを教える講義型スタイルに一変した。答えを一方的に教えられると、生徒は分かったつもりになり、そこで思考を停止する。  教える教育が恐いのは、答えを大量に詰め込めば詰め込むほど、追求力が低下してゆくという構造である。その典型が優秀生を集めた中学受験塾の詰め込み型授業だろう。その結果、言語能力を始めとする現代人の思考力は、惨憺たるレベルにまで落ち込んでしまった。

昔の一高生や三高生は、よくデカンショ節などを放吟していたが、デカンショとはデカルト・カント・ショーペンハウエルのことで、試験に出る訳でもないのに、彼らはそれらの難解な哲学書を読みこなしていた。つまり、昔の東大・京大生は余裕を持って入学してきた。だから、優秀な人が多かった。
 しかし、’70年、豊かさが実現され、誰でも大学に行けるようになると、受験競争が激化し、中学受験塾が幅を利かすようになる。そこでは、小3の頃から勉強漬けにされ、全く追求力のない「暗記脳」が強固に形成されてしまう。勉強漬けにしないと、合格できなくなって終ったからである。その上、受験勉強を通じて、「自分脳」の極致ともいうべき歪んだエリート意識にも染められてしまう。
 しかし、現実の社会でぶつかるのは、答えのない問題ばかりであり、決まりきった答えやパターンを暗記しているだけの暗記脳では、全く答えを出せない。かくして、暗記脳しか持ち合わせていない(かつ、己の利権を維持することしか頭にない)無能な受験エリートに率いられた日本は、わずか20年の間にガタガタになって終った。

生きる目的を見出せない学生たち

受験圧力に押し潰され、生きる意欲を失っているのは、東大・京大生だけではない。大半の学生が、親や先生から「いい生活、いい大学」と言われ続けて来たが、「いい大学」を出た筈の父親を見ても、とても「いい人生」とは思えず、従ってそんな目的では意欲が湧いてこない。それに、教科書や問題集に書かれていることが、何の役に立つのか、よく分からない(実際、実社会では、殆ど役に立たない)。加えて、それらのテキストは大半が今や引力を失って終った近代観念で書かれているので、何の興味も湧かない。今や、志を持って勉強してきた者は殆ど居らず、親に言われて「仕方なく勉強してきた」学生が大半である。
 それどころか、勉強だけではなく、部活にも、仲間づきあいにも意欲が湧かず、何の為に生きているのか分からないまま「仕方なく生きている」学生も多い。
 しかし、それは子供や若者だけではなく、40代の壮年も、同じなのかも知れない。

豊かさの実現→市場の縮小→金貸し支配の終焉

こんなことに成ってしまった底流には、人類の活力源の大転換の潮流が潜んでいる。
 人類は長い間、飢えの圧力に晒されて生きてきた。とりわけ約3000年前に、私有権が共認されて以降、社会に存在する全ての土地と物財が誰かの私有物となり、人々は私有権を確保しなければ生きていけないという否も応もない絶対的な強制圧力の中に封じ込められてきた。こうして、誰もが私権(財や地位)の獲得という目的に収束し、収束することによって統合される私権統合の社会が出来上がった。
 しかし、’70年、豊かさが実現され、人類は遂に飢えの圧力から抜け出した。飢えの圧力が消滅すると、私権の強制圧力が一気に衰弱してゆく。
 そうなると、これまで私権の強制圧力によって抑制されてきた人類本来の充足を求めて、人々が本源収束してゆくのは必然である。現に、仲間収束はどんどん強まってきたし、私益よりも「周りの役に立ちたい」と望む人が過半に達している。
 ところが、これまで市場拡大の原動力となってきたのは、人々の豊かさ期待である。言葉を換えれば、私権欠乏であり、私権圧力である。従って、豊かさが実現され私権圧力が衰弱すると、市場は拡大を停止するしかない。しかし、それでは私権統合の体制が崩壊し、市場を支配してきた金貸しもその権力を失ってしまう。
 そこで金貸しとその配下のお上は、不足する需要を補うべく赤字国債を発行し、これまでに1000兆円もの資金を人工的に市場に注入して、見せかけの「経済成長」を演出してきた。
 しかし、需要のない市場にお金を注入しても、お金はダブつくだけで、その資金は土地や株式にしか向かわない。かくして、経済は忽ちバブル化していったが、バブルは必ず崩壊する。その後、市場はバブル化と崩壊を繰り返し、遂に投機マネーが実体経済に必要なマネーの30倍にも達するブヨブヨの肥満経済を現出させてしまった。今や、世界経済は、いつ国債が暴落してもおかしくない状態にあり、経済破局が目前に迫ってきている。
 だが、慌てることはない。これは、何よりも金貸し自身の危機である。そして金貸しの危機は、人類の可能性の到来である。

学歴信仰と序列社会の崩壊の予感

追い詰められた金貸しは、戦後奇跡の復興を遂げ、生産能力も資金蓄積も豊かな日本の再占領に乗り出し、一気に実現してしまった。それが、小泉フィーバーの演出を皮切りとする、(従来から支配してきた)官邸と司法とマスコミの完全支配の工作である。
 金貸しとアメリカに完全服従したお上とマスコミは、彼らの言いなりになってTPPを推進し、原発事故でも医療でも常に事実を隠蔽し、嘘をつき続けてきたが、国家権力とマスコミを総動員しても、大衆の反原発・反TPPの意識を変えることは出来なかった。そこで、政権を失うことを恐れた彼らは、遂に不正選挙という禁じ手に手を染め、それ以来、彼らは偽りの絶対多数に物を言わせてやりたい放題に振舞っているように見える。
 しかし、それはもはや不正選挙によってしか政権を維持する道が無くなったということであり、そこに見るべきは、そこまで追い詰められた金貸しとお上の姿である。とりわけ、不正選挙は「民主主義」の根幹を破壊する暴挙であり、それは(「民主主義」を支持してきた人々にとって)秩序の崩壊を意味する。
 秩序崩壊の危機感は本能の最深部(適応本能=秩序化本能)を直撃する。人々はそこに、学歴信仰と資格身分によって構築されてきた序列社会の崩壊を嗅ぎ取った。そして、「いい生活、いい大学」に象徴される私権追求の活力が一気に終息すると共に、勉強離れが急速に進んでいった。
 かくして、強制的な勉強圧力は無効となってしまった。今や「いい生活、いい大学」という言葉が作り出す勉強圧力は、子供たちのやる気を高めるどころか、子供たちの生きる意欲を喪わせる元凶となり、勉強圧力に基く詰め込み教育は子供たちを潰してゆく元凶となっている。

各地で教育革命が進行中

もはや、勉強以前に、生きる意欲から再生し直さなければ、どうにもならない。そこで、(類塾で実施していることだが)現実の生々しい社会現象(新聞記事)をテキストにして5人前後のグループワークでその背後構造の解明に取り組ませてみると、子供たちは見違えるように生き生きと追求し始める。本来、仲間と追求することは楽しいことだが、子供たちはそれを体感する。そして、新しい事実を知る度に、何らかの思い(小さな志)が芽生えてゆく。こうして追求充足と小さな志を原動力として、本物の追求心が形成されてゆく。
 講義型の教える教育から、グループ追求を中心とする追求型教育への模索は類塾だけではなく各地で行われている。それは、勉強圧力が無効となった ’13年から始まっており、すでにハーバード大や東大は追求力の育成を目指して追求型教育へと大きく舵を切ったし、都立の日比谷高校や西高や両国高、あるいは京都の堀川高校も追求型教育を実践してきた。
 そして、遂に ’16年入試において、これら追求型教育に転換した公立高校が東大・京大合格数を大きく伸ばす結果となった。高校入試でも生徒たちの自主追求グループの活動が活発だった類塾の教室は軒並み94%以上の極めて高い合格率を達成した。
 これは、追求型教育が子供たちの意欲を再生するだけではなく、入試でも勝つことを実証したという意味で、画期的な出来事である。これは教育革命と呼ぶに値する。
 こうして各地で詰め込み型の教える教育からグループ追求を中心とする追求型教育への移行=教育革命が進行中である。

追求充足の時代

その原動力となっているのは、 ’11年春の原発事故と ’12年末の不正選挙によって生起した、危機感と不整合感の増大である。事実を幣するお上の言動に対する不整合感と秩序崩壊の危機感は、学歴信仰と身分序列の崩壊を予感させ「いい生活、いい大学」という言葉が象徴する私権活力の息の根を止めることになった。
 それは、私権追求の活力に代わる、本源的な活力の欠乏を上昇させると共に、「事実を知りたい」「時代の先行きを見通したい」あるいは「社会の構造を掴みたい」「人々の意識の潮流を掴みたい」等、無数の追求課題を生起させることになった。
 それらの欠乏こそ「仲間と追求するのは楽しい」という追求充足を生み出した源泉である。

私権活力の急低下と追求充足という本源活力の急上昇は、子供だけではなく、大人も同じである。例えば類グループが主催する若者や社会人を対象とする実現塾やシニアを対象とする老人大学でも、誰もが追求充足を体感しながら、事実の追求に収束してゆく。
 これは、活力源の大転換である。追求充足とは、サルから人類への進化を生み出した活力源そのものであり、今人類は3千年に及ぶ私権追求という活力源を廃棄して、追求充足という人類本来の活力源へと回帰しつつある。この追求充足は無数の追求課題を前提としており、今後その追求方向に応じて様々な面で、人類を新たな進化段階へと導いてゆくに違いない。

我々は、活力革命の渦中にいる

要するに、今起きているのは活力革命である。これはフランス革命や明治維新やソビエト革命等の近代の「革命」とは、全く次元を異にしている。近代の「革命」は現実のどこにも存在しない頭の中だけの架空観念に導かれたペテンのような「革命」であり、従って彼らのキレイ事(架空観念)は全く実現されず、当然見捨てられていった。
 それに対して、今起きている活力革命は、言葉に導かれた革命ではなく、言葉よりも遥かに深い潜在意識の地平で現に生起している革命であり、教育革命がそうであるようにこれは本物の革命である。
 つまり、現在、我々はすでに革命(命を再生すること)の渦中にいる。
 今や、追求充足のある場に人が集まる。仕事も集まる。従って、どこまで追求充足の場を形成できたかが、企業の盛衰を規定することになり、それが出来ない集団は淘汰されてゆくことになる。おそらく活力革命の渦中では、役所(公務員)や大企業はいつ解体されるか分からない最も不安定な集団と化してゆくだろう。

どうやら、類の時代が来たようである。類グループは、豊かさが実現された ’72年、早くも本源社会の実現を目指す共同体として設立された。従って、もともと追求充足の場が至るところに設けられている。現業上の全ての情報と問題は社内ネットに発信・集約され、毎日200投稿を超える社内ネットは、一つのまつり場を形成している。また、認識力を磨く場として毎週仲間会議(7人前後の小グループ)が開かれ、文字通り追求充足の場となっている。更に現業上あるいは理論上の難しい追求課題は、全社員が一堂に会する劇場会議で追求され(平均して月2回)、全社経営の基本方針をはじめすべてはそこから動き出す。

可能性発へ、そして実現基盤の発掘へ

活力革命が進行中であるということは、人類が思考停止を脱して思考を解放する時代に入ったということと同義である。ところが、頭は近代観念でほぼ覆い尽くされており、本源回帰の潜在思念は近代観念によって出口を塞がれ、顕在化できないでいる。
 ではどうしたら、思考を解放できるのか?
 それは、思考の方向を変えるだけで良い。
 これまでは、もっぱら「問題意識を持て」「物事を追求するためには問題意識が必要である」と教えられ続けてきた。殆どの本にそのようなことが書かれているが、実はそれは近代観念に特有の思考パラダイムに過ぎない。確かに何らかの架空観念を信仰し、その観念に強く収束している場合は、その観念に反する事象を目にすると問題意識が生じる。
 しかし、近代観念はとっくに見捨てられて終った。人々は無思想であり、いかなる観念にも強く収束していない。従って、問題意識を持てと言われても、問題意識など持ちようがない。だから、今や「問題意識」云々という言説は、人々を思考停止状態に封じ込める役割しか果たしていない。

本当は、問題意識など不要である。人は思想などなくても、物を考えることができる。潜在思念とは、本能と共認機能が生み出す意識のことであり、それは誰にでも生じている。そして、本能と共認機能は常に現実の圧力を対象化して、その時々の可能性を感じる方向へと意識を向ける。これが人類の本源的な思考方向である。
 従って、問題意識発で物を考えるのを止め、本能・共認機能が感取した可能性に立脚してその実現方法をとことん追求すれば良い。それだけで、思考は解放される。

私は、近代思想が見捨てられた’65年以来、50年に亙って新理論の構築に取り組んできた。それは本源社会の実現基盤を発掘するための、原始社会からサル社会、更には生物史にまで遡った意識構造や社会構造の追求となった。そして、仲間の力を借りてようやく概略の答えに達したが、その過程でいくつかの新概念を生み出した。この新概念を使いこなすことが出来るようになれば、誰でも簡単に答えを出せるようになる筈である。

類グループでは、活力革命の先頭に立つべく、経営資源を社会事業と教育事業に集中させつつある。まずは、マスコミが書けない事実を報道する『事実報道(週刊)』の発刊と、それを全戸に配布する宅配ネットワークの構築に着手した。同時に、追求充足の場となる実現塾や老人大学もすでに開講されている。
 人類は、本源社会の実現に向けて、思考を解放してゆく時代に入った。その出発点は追求充足。何よりも追求充足こそが、事実を追求することの面白さを教えてくれる。そして、事実の追求は自ずと志を芽生えさせ、追求力と認識力を上昇させてくれる。若き追求の士が集まらんことを願っている。


代表取締役社長 岡田 淳三郎